知識の地図、書き換わってる?
最近考えてたんだけど、知識って、ずっと「分ける」ことで発展してきたよね。自然哲学から始まって、それが物理学、化学、生物学って細かく分かれていった。専門家になるには、一つの分野を深く、深く掘り下げる必要があった。それが当たり前だった。医者になるにも、歴史家になるにも。
情報が貴重だった時代は、それで正しかったんだと思う。一つのことを極めるだけで一生かかるような。でも、その「壁」が、今となっては知識同士を隔ててる。別の分野と協力しようとしても、言葉が通じない、作法が違う、みたいな。口では「学際的が大事」とか言うけど、実際やろうとすると、どっちの分野からも「よそ者」扱いされたり…。なかなか難しい。
でもね、AIが出てきて、その前提が静かに崩れ始めてる気がする。
AIには「専攻」がない
AIの革命的なところって、速さや量だけじゃない。AIには「専攻」がない、っていう事実。物理学のデータだろうが、詩だろうが、会計だろうが、データがあれば何でも学習する。これ、地味にすごいことだと思う。
つい僕らはAIを「理系」のもの、プログラミングとかデータ処理の道具だって思いがちだけど、本質はそこじゃない。十分なデータを見たものなら、何でも得意になる可能性がある。気候モデルの分析、バッハ風の作曲、法律の契約書作成…。つまり、僕らが作った「学問の分野」なんてものは、AIにとっては関係ない。人間が作った、便宜上の境界線でしかないってことを見せつけられてる感じ。
なのに、僕らはまだその境界にこだわってる。
これからの「専門家」と、昔の「専門家」
じゃあ、これからの時代の「専門家」って、どういう人なんだろう。昔の専門家と何が違うのか、ちょっと考えてみた。
| 評価軸 | 古いタイプの専門家 | 新しいタイプの思考者 |
|---|---|---|
| 知識の扱い方 | 自分の領域を守る。知識は希少なもの。言わば「番人」かな。 | 分野を横断してつなぐ。知識は共有するもの。こっちは「翻訳者」って感じ。 |
| 価値の源泉 | 何を「知っているか」。記憶力とか、情報の多さが大事だった。 | どう「考えるか」。問いを立てたり、前提を疑ったりする力。 |
| 深さと広さ | とにかく深い。でも、その分、狭くなりがち。 | 深さも持ちつつ、異なる分野をつなぐ「広さ」を重視する。T型人材とか言われるやつに近いかも。 |
| AIとの関係 | 自分の仕事を奪うかもしれない…っていう脅威に感じやすいかも。ルーチンワークが得意だった人ほど。 | 思考を拡張してくれるパートナー。面倒な作業は任せて、自分はもっと本質的な問いに時間を使う。 |
「学際的」という言葉の皮肉
大学とか研究機関って、もう何十年も「学際的な思考が重要だ」って言ってる。でも、本当にやろうとしたことある人ならわかるはず。めちゃくちゃ大変だってこと。
例えば哲学者が遺伝学者と本気で共同研究するなら、ただお互いをリスペクトするだけじゃダメで、「共通言語」がいる。でも、その共通言語が、ないんだよね、ほとんどの場合。
自分の専門分野のアイデンティティから一歩外に出ると、そもそも発言権の基盤だった信頼を失うリスクがある。データサイエンスに手を出す歴史家は、他の歴史家から疑いの目で見られるかもしれない。倫理について書き始めた生物学者は、倫理学者から真面目に相手にされないかもしれない。…これ、本当に皮肉な話だと思う。境界を越える人を称賛するくせに、誰も報いない。
結局、一番安全なのは、一つの分野を選んで、その中にずっといること。でも、現実世界の問題…気候変動とか、格差とか、技術による社会の変化とかって、一つの分野だけで解決できるわけないじゃない?
新しい学びの形は、もう始まってる
でも、希望もある。一部の教育機関は、この変化をもっとはっきり見てる。アメリカのミネルヴァ大学(Minerva University)とか、日本でも全寮制の国際大学である神山まるごと高専や禅大学(Zen University)みたいな実験的な学校が出てきてる。
こういう場所が重視してるのは、特定の科目をマスターすることじゃない。批判的思考力とか、現実世界とのつながり、分野を横断する力。そもそも学びが特定の科目や教室、キャンパスに縛られる必要はない、っていう考え方がベースにある。
アメリカのミネルヴァ大学のやり方は面白いけど、日本でも似た哲学を持つ動きがあるのは興味深いよね。特に日本は伝統的に「型」を重んじる文化があるから、こういう新しい教育モデルが出てくること自体に大きな意味があると思う。
まだ数は少ないけど、こういう動きが未来の方向を示してる。これからの教育の目的は、一つのことを極めるんじゃなくて、どんな文脈でもうまく思考する能力…つまり、パターンを認識して、良い問いを立てて、前提を疑い、関係なさそうな点と点をつなぐ能力を育てることになるのかもしれない。
専門知識じゃなくて「知恵」がいる
「専門家」っていう言葉の意味自体、考え直す必要があるんだろうな。昔は、専門家っていうのは、他人が持ってない深い知識を持つ人のことだった。でもAI時代は、情報は一瞬で手に入る。だから、専門性っていうのは、何を知ってるか、じゃなくて、どう考えるか、になる。
もちろん、深い知識が要らなくなるわけじゃない。でも、それだけじゃ足りない。事実を覚えたり、決まった作業をこなしたりするのは、AIの方が得意だから。自動化できないのは、知恵とか、判断力とか、複雑なものの中から意味を見出す力。これって、専門分野を深めるだけじゃ身につかない。広さとか、好奇心とか、倫理観とか、そういうのが全部必要になる。
未来の専門家は、古代の哲学者みたいな感じに近くなるのかも。確実な答えを知ってる人じゃなくて、分野の境界を越えて、真理を探究する人。
AIは思考のパートナー
結局のところ、AIは専門家だけの道具じゃない。人間の思考の、新しい相棒みたいなものだ。要約も比較もシミュレーションもしてくれる。僕らが考えもしなかった視点をくれるかもしれない。
でも、何を問うべきか、何が重要なのかは、AIには決められない。それは、僕らの仕事として残る。そして、その仕事を果たすためには、僕ら自身が、もっと良い問いを立てられる思考者にならないといけない。
静かな革命は、たぶんもう始まってる。YouTubeのチュートリアルで学んだり、Discordで勉強会を開いたり、AIと一緒に文章を書いたり。古い知識の地図は、もう色褪せ始めてる。その先に現れるのは、混沌じゃなくて、新しい秩序なんだと思う。つながりによって築かれる、生きた思考のネットワーク。そして、うまくいけば…新しい種類の「知恵」が、そこから生まれてくるのかもしれない。
あなたにとって、これからの「専門家」ってどんな人だと思う? AIとどう付き合っていきたい?
